浩樹が帰宅すると、玄関には一揃いの靴があった。
勝手に入れるのは合鍵を持つ者――同居人だった留学中のエリスか恋人の麻巳しか居ないのだが、見覚えのある靴は間違いなく麻巳のものだ。
普段なら出迎えるのが嬉しくてたまらないらしく、扉を開けた瞬間に飛んでくるのが通例である。しかし今日はそうしない。残念だが仕方がない。疲れているのだろう。
なんでも麻巳はコンクールに出展する絵に没頭しているらしく、追い込みをかけるとかで、しばらく前から浩樹の部屋に来なくなっていた。
完成したら必ずその日のうちに行きますから、と言っていたのだが、計画性のある人物というより計画通りでなければ身動き出来なくなるタイプの麻巳がそこまで切羽詰っている状況というのも珍しい。心配ではあるものの、見るからに燃えている麻巳を見ていれば不安など簡単に消し飛んだので、浩樹もただ頑張れよと応援するに止めた。
指導者として、弟子に対する思いはそんなところなのだが、恋人として思い人に会えない日々は辛い。心待ちにしていた日がようやく来たかと、浩樹は足早にリビングへと急ぐ。
だが、いざリビングに着き覗いてみても人影は見当たらない。
キッチンで料理中か、はたまた寝室で待ち構えているのか。料理の気配は無いので寝室だとして、どっちだ? ――考えを巡らす浩樹だったが、その時である。ソファの方から聞きなれた数日振りの声が聞こえてきた。
「おじゃましてまふぅ……」
聞きなれた、愛しい声。しかし、聞いた事も無いようなふわふわした調子だ。
何かの聞き間違いかと疑う程だったので、浩樹は回りこんで死角になっているソファの上を覗き見た。すると、そこにはYシャツ一枚―― 一応、下着を付けているのは確認した。もちろん覗いたのではなく不可抗力である――でソファに横たわり、意識朦朧としたまま必死に瞼を開けようともがく愛しい人の姿。髪は解いているが、眼鏡を外すのは忘れている辺り、いかにギリギリの状態でここまで来たかが窺い知れる。
情けない格好、と言えるかも知れない。
不本意ながら目立つ立場になってしまった麻巳は、いつも地味目のカッチリした服装で大学に通っていたのだが、今やその服も横たわるソファの下に脱ぎ散らかしてある。しかし、日常的に殆どスキを見せない(少なくとも本人はそう信じている)麻巳が緩み切っている姿は、本人のテンションとは逆にいささか刺激的だったりもした。
疲れているのだろう。そう思い、浩樹は久々に目にするきめこまかな白い太腿に触れたいという欲求を必死に押さえつけた。
「来てたんだな」
どうにか欲望を押さえ込み、眼鏡を外してやりながらそれだけを呟く。
意識があるのか疑わしい状態の麻巳だが、それでも確かに聞こえてはいるようで、眠そうに目を擦りながらもゆっくりと頷いて見せた。
「頑張ってるみたいだからな、終わって家に来たら外食でもと思っていたんだが――」
聞くまでもない。しかし、さすがに複雑な思考は無理な様だった。ふみゅぅ、とかふみゃぁ、とか猫の鳴き声みたいな呻き声を漏らすのみで、麻巳は一向に明確な答えを返してこない。
「俺がご馳走を作る、という案もあるんだが。それでもいいか?」
しかたないので、浩樹は自分から提案する。さすがにYESかNOの二択なら何とかなるだろう。そう思ったのだが、しばらく待っても答えは返ってこない。よく見れば、必死で開こうともがいていた瞼も今や完全に閉じられていた。
――どれだけ魅力的かを理解していないとしか思えない様子で投げ出された太腿を決死の思いでスルーし、肩に手を置いて揺すりながら、浩樹はもう一度だけ同じ問いを繰り返す。
また駄目なら寝かせておいた方がいいか、と考えはじめた矢先、麻巳は少しだけ瞼を開けた。
「なんでも~……。美味しいのが、いいですぅ~……」
「いや、あのな」
もちろん異議があった訳ではないのだが、せめてメインディッシュの意見くらいは欲しい。何でもいい、というのがリクエストを受け付ける側にとって一番困るのである。
しかし、浩樹の意図など寝惚けた麻巳に伝わる訳は無く、
「異議は認めませ~ん」
普段なら絶対に聞けないような間延びした声で言いながら、麻巳は寝返りを打って向こうを向いてしまった。その背中は、いいから寝かせろと語っている。罵声を浴びせられないだけでも、愛されていると誇るべきだろうか。
努力の裏返し。恐らくこの数日、徹夜に近い状態で絵を描くのに没頭していたはずだから、仕方の無い事だし愛しい仕草にしか見えない。しかし、だ。
「大学の連中や、撫子の後輩がこんな姿を見たらガッカリどころか絶望して首吊りかねんぞ」
クールでいながら情熱家、才能に溢れながらも苛烈なまでの努力家で、人の面倒を見るのが趣味みたいな根っからの委員長気質。大学の連中から見れば期待の大物ルーキー、卒業した撫子学園に戻れば、有名画家の麻生・美咲両画伯に匹敵する名門美術部の歴史上最高レベルの結果を残したOBにして最強(最凶?)の元・部長なのである。
それが今、男の家に転がり込んで、Yシャツ一枚でソファの上でゴロゴロと蕩けている。役得とはいえ、本人的にはこれで良いのだろうかと心配くらいはしたくなる。本人がしないのだから、俺がしっかりせねばという気がした。
「だ~いじょうぶですよぉ。浩樹さんの前でしか、こんな姿は見せませんからぁ……」
そう、なのだろう。男冥利に尽きるというものなのだが、果たして喜んでいていいのだろうか。本人に教えて、成長を促すべきなのかと教師で師匠な立場としてはいささか迷うところだった。
「自宅でだって、こんなにだらけたり、しないんですからねぇ……」
「そうなのか?」
「そうですよぉ。ふみゅぅ……」
まるで日向で微睡む猫だった。耳でも付けたら似合いそうだが、猫なだけに余計なちょっかいは怪我のもと。何より、やっとゆっくり休める麻巳を邪魔してはいけない。
可愛がるのは後のお楽しみとして、今は餌付けに努力すべきか。
「俺としては多少残念ではあるが……。それならそれだ、外食の代わりと言える程度には腕を揮って見せますかね」
「期待してますよぉ……満漢前席ぃ……」
完全に熟睡モードに入ったはずの麻巳は、ハッキリとリクエストを返してくる。――むしろ高価な和牛でもリクエストされた方が気楽に思えた。
「無茶言うなおい……」
「きたいぃ……してるんですからねぇ……すぅ……くぅ……」
「やれやれ。こりゃ、覚悟を決めるしかないな」
食事が完成するのもなるべく遅くしなければ、恐らくお姫様は夢と現を行き来しながら食べる事になるだろう。それでは悔いが残る。待つくらいなら、その分だけ手の込んだ料理で苦労を労ってやるべきだ。
かくして浩樹は、自分の前でだけ壊れてしまうお姫様のために全力を尽くす事を誓い密かに拳を握るのだった。
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- 2009/01/26(月) 01:18:57|
- 短編
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