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竹内麻巳SS倉庫

Canvas2というゲームで、美術部部長の竹内麻巳のSSを掲載していく予定です。

夢のかたち










 ◆◆◆◆◆Scene1◆◆◆◆◆





 季節の割に涼しい日で、冷房の設定は弱めだった。その控えめな音と、彼が林檎を剥く音だけが病室で静かに響いている。それが嫌で、窓を開けてと頼んだ。
 浩樹さんが窓を開けると、途端に騒がしくなる。外から喧しく響くヒグラシの鳴く声が、夏の終わりを告げていた。ぼんやりと外を眺めて――私は自分の存在すらも暫し忘れる。
 いまだ実感は無い。ただ、魂が抜けたように力が入らなかった。けれど蝉達の命を懸けた求愛の歌が、否応無く終わりの幕を引くための、幕引きの曲のように感じられ。
 ――夏の終わり。私にとって、終わるのは。終わったのは、夏だけではなかった。
 全体に出血は酷かったらしく、かなりの量の輸血があったらしい。今は血は足りているはずなのに、まだ貧血気味で頭がクラクラするようにも思えた。麻酔で長く眠っていたので、頭が回らないのは仕方ないだろう。
 私は、ただ生きていればいい。悩むのは後でいい。今はただ、心よりも身体を回復させるために力を向けなければ。
 事故に遭い、この病院に運び込まれたのが昨日。麻酔から目覚めたばかりの今日も、当然ながら傷は大して癒えていない。点滴と同時に痛み止めも打たれているからか、全身を覆う包帯が大げさに感じる。夜には疼くのだろうか。
 ――傷の治りかけは痛みではなく、むず痒さに耐えるものだ。それも治る過程と考えれば耐えられるけれど、私は『治らない』と言われている。それでも耐え切れるのだろうか。そう、他人事のように考えてみる。
 殆どの傷は、見た目にも分からないくらい治るらしい。そのための手術も必要だけど、費用は全て相手が出してくれる。当然の権利だ、遠慮などしない。
 でも。
 一つだけ、一番大切なものが、戻ってこない。
 私が十年以上もの年月を共に過ごし、育てた夢の欠片。大切な右腕だけが、もう元には戻らない。
 まだ絶望もしない自分が恨めしい。早く泣きたいのに。何の感情も湧かない。
 耐えられるだろうか。私は、先の無い、ただ辛いだけのそれに。これから疼くであろう全身の傷に。
「なあ、麻巳」
 随分ゆっくりと皮を剥いていた彼が――浩樹さんが、唐突に口を開いた。見ると、手が止まっている。ずっと言葉を探していたのだろう。
 昨日は面会謝絶だったので、今日になって彼は改めて面会に来てくれた。
 両親は気を使って二人きりにさせてくれて――というより、実家の店を開けに帰った。これは私が頼んだこと。何日も休めるほど余裕は無いし、彼が来たことで安心してくれたのだろう。
 でも。
 恋人であると同時に、失った夢――絵の師でもある彼と、今の私が何を話せと言うのだろう。
 私は彼の呼びかけには応えず、虚ろな瞳は窓の外に向けたまま。
 無視したわけではない。何を思うわけでもない。それでも無言を返す私だったが、彼は気にせず続けた。
「励ますべきか、慰めるべきか悩んだ。だけど、先に言うべき言葉はそうじゃないよな」
 林檎を見つめていた彼の視線が、私に向けられる。
 虚ろな瞳でそれを見返す私に、彼は震える声を必死に押し殺しながら言った。
「生きていてくれてありがとう。今は、それだけしか無い。後の事は、後で考えよう。一緒に。必死に……っ!」
 言葉はそこで途切れた。泣いているのか。怒っているのか。分からない。興味が湧かない。
 ――私の瞳からも、知らず涙が溢れていた。働かない頭でも、私はこの言葉を受け入れたのだと分かった。
 大学で始めての夏が、もうすぐ終わる。
 その年、その夏に。幼い頃に夢見た私の未来が、唐突に幕を閉じた。





 普段の私なら、事前に気が付いて何らかの対応が出来たかも知れない。――もちろん自分を責めている訳でも、相手を責めている訳でもない。あれは、仕方の無い事故だった。
 飛び出した猫。それを避けた車。避けた先に、初めての恋に浮かれながら歩いている私。
 跳ね飛ばされて、気が付いたら翌日の朝だった。事故の瞬間の事は覚えていない。詳細は朝起きてから聞かされた。
 何も聞かされないうちからボーっとしていた私は、とにかく猫が助かったことだけを喜んでいた。
 しかし。そんな私の働かない頭が、僅かながら衝撃に揺れる。
「目立つ位置に、大きな傷が残らないのは幸運でしたね。前向きに考えることです。何も治らないわけじゃない。リハビリを頑張れば、日常生活に問題無いくらいには回復するでしょう」
 医者の言葉が遠い。フィルターを通したようにハッキリとは聞こえず、私はもう一度聞いてみた。
「ですから、あなたの右腕の神経は切れています。早めに繋ぐ事は成功しましたが――完全に元通りの感覚を取り戻せるかどうかは、なんとも言えません」
 改めて聞いた言葉は、やはり濁っていて。私の頭に浸透するには、今しばらくの時間を必要とした。





 傷もいくらか癒えてきて、意識もハッキリして。
 夢の終わりも十分に理解した私が最初にした事は、自分の将来について浩樹さんに伝えることだった。
「だから、特に問題は無いんです。浩樹さんが心配することではありません」
「教師になるだなんて、初めて聞いたぞ」
「ええ、言ってませんから。霧さんには相談してますし、聞いてみたらどうですか?」
「別に疑っているわけではなくてだな……」
 画家ではなく、美術教師になる。これは高校時代から決めていたことだ。
 彼に話せば反対すると思っていた。だから既成事実を作ってから打ち明けるつもりだった。しかし、こうなってしまっては仕方が無い。
 私の夢が潰えたと思い、辛さを押し隠して笑顔を作る彼を見るのは耐えられなかった。
 教師になる夢が逃げ道のようで、それだけは嫌だったけれど、今は仕方が無い。腕も治して、絵を描けるようになってから教師になればいい。それで全て丸く収まる。
 たとえ右腕が治らなくても、まだ左手がある。口だって、足だって使える。
 リハビリは辛いだろう。でも、絵は心で描くものだ。手が使えないからといって、スポーツや音楽のように何も出来なくなる事は無い。頑張ってリハビリをして、他の手段で絵も描いて。そうしていつかは、また同じように絵を描ける日も来るだろう。
「そんな事より。ほら、早く……。お腹空いちゃいました」
「あ、ああ。ほら……あ~ん」
 言われるままに口を開けて、彼の差し出したスプーンを口の中に導く。薄味のシチューは、私の空腹を優しく満たしてくれた。
 ――最初、彼は照れていたけれど、これは病人の特権だ。いくらでも甘えさせてもらう。何しろ、こちらには利き腕が使えないという大義名分があるのだ。彼に抗う術など、最初から無い。
 それ以前に、嫌がったりしたら許さないけれど。
「美味しいか?」
「とっても♪」
 幸せ一杯の笑顔で応えると、彼も照れたように――やっと笑ってくれた。
 私のせいで浩樹さんまで暗い顔をしていては勿体無い。だから私は笑って、彼にも笑ってもらおう。笑ってさえいれば、いつか本当に楽しくもなる。
 わざわざ許可を得て作ってくれた彼の手作りシチュー。それを彼の手で食べさせてもらう。こんな幸せはなかなか無い。これなら、大怪我をした事も悪くないかな。

 思えば。
 この頃の私は、まだ事態がよく呑み込めていなかったのか。
 或いは目をそむけていたのかも知れない。





 リハビリとか、治りかけの頃とか。これから色々大変だろう。でも私はきっと大丈夫。
 ――辛いとか、苦労するとか、努力するとか。
 私はそういったことに苦を感じない人種だとよく言われる。主に親友その1・東楓子に。
「まー竹内のことだから大丈夫。何があって必ず立ち上がる不死鳥の如き戦士だから」
「戦う相手が秘密結社みたいな言い様ね」
「似たようなもんでしょ。以前は怠慢顧問、今は怠慢部長を相手に獅子奮迅の大活躍。まさに勇者!」
「もう……」
 私は呆れながらも、内心では彼女に感謝していた。
 楓子は凄い。怪我をして落ち込んでいる相手に暗く当たっても仕方ないのは明らかだが、それを分かっていても実践するのは容易ではない。少なくとも私は自身が無い。それを彼女は事も無げにやってのけるのだから、結構大物なのである。――それを一人で済ませない辺りも。
「それじゃ、年寄りはこの辺にして。ちょっと出てくるわ。行きましょ、菫さん」
「はい。……竹内さん、また後で」
 一頻り盛り上がった後、楓子は菫さんを連れて病室を出て行った。
 そして、楓子に連れられてきた二人の少女が残される。
「東先輩、賑やかな人だよね」
「そうね。でも可奈ちゃんもいい勝負だと思うわよ」
「あはは。そうかな。そう言って貰えると嬉しいけど」
「褒められてる感じじゃありませんよ、可奈先輩」
「そんな事無いわ。ムードメーカーって大事よ。特にこういう時は、凄く助かる」
「そ、そうですね……」
 今のは言い方が少し微妙だったか。気が強いのに場面によってやたら内向的な藤浪さんは、何と言っていいか分からず黙り込んでしまった。
 折角、楓子が気を使ってくれたというのに。折角、二人がお見舞いに来てくれたというのに。これじゃいけない。
 私は思いなおし、適当な話題を探した。
「美術部の方はどうかしら。誰かさんは、真面目にやってる?」
「ええと。まあ、それなりに……」
 この状況で、私のお付き合いしている人をけなすのは気が引けたのか。彼女は微妙に視線を逸らしながら言ったが、私にはそれだけで分かってしまった。
「まったくもう。御免なさいね。後でよく言い聞かせておくから」
「いえ、本当にそれなりなんです。上倉先生は真面目に部活に出ています。……色々適当で、田丸部長が苦労してますけど」
「あははは。なんだか保護者同士の会話っていうのも、味があるよね~」
 某美術部の某顧問の会話は、この面子では鉄板のネタだ。鳳仙さんが居なくても、それは変わらない。
 可奈ちゃんの笑顔もまた、みんなの笑顔を引き出す合図だった。私たち三人は、やっと肩の力を抜いて笑いあう。
 ――そして少し間を置いて、笑い声が止んだ頃。可奈ちゃんはやや俯き加減で、遠慮がちに言った。
「東先輩、凄いよね。最初、ここに来られないって泣いてた。私も同じで、相談したんだけど……」
「分かってる。だから、大好きだし尊敬してるの。皆を連れてきてくれたし」
 彼女が笑ってばかりいたから、可奈ちゃんは私が勘違いしないかと不安だったのだろう。私が何てこと無いように応えたので、安心して息を吐いた。
「私たちも、お見舞いに来たくて、でもどんな顔でどんな事を喋ればいいのか分からなくて。東先輩が居なかったら、いつまでも来られなくて後悔していたと思います」
「でも来てくれた。嬉しいわ、本当に……」
 藤浪さんの言葉に応えて、そう言いながら私は不覚にも涙を滲ませてしまった。
 嬉しくて、本当はずっと泣きそうだった。でも、何だか勘違いされそうで我慢していた。それが感謝を言葉にした途端に溢れ出る。
「あ、あの、ごめんなさい。私そんなつもりじゃ――」
 藤波さんがあたふたしている。自分のせいで、私が傷ついたと思っているのだろう。彼女は優しい子だから。
 早く泣き止まないと。逆に彼女を泣かしてしまう。でも、なかなか止まってくれなかった。嗚咽が続いて言葉が紡げない。
「大丈夫。ほら、落ち着いて深呼吸して。すーはーすーはー……」
 その時、可奈ちゃんが私の背中を優しく擦ってくれた。自ら深く呼吸をしながら、それを私にも促してくる。
 言われた通りに深呼吸して――藤浪さんも、それに倣っていた。
 静かな病室に、息を吸って吐くだけにしては随分大げさな音が響く。暫くして落ち着くと、私は謝り、藤浪さんも納得してくれた。それを可奈ちゃんが笑顔で見守る。

 それから楓子と菫さんが戻ってきて、しばらく賑やかな時が続いた。
 皆が来てくれたのは、本当に嬉しかった。でも、皮肉にもそれによって辛い現実を実感してしまった。思えば浩樹さんを心配させまいと強がって、自分の心を塗り上げてしまったのだろう。
 リハビリをして、駄目でも左手で絵を描いて。同じように結果が出せると、そう信じているけれど……。
 この日の夜、私は言い知れぬ不安になかなか寝付けなかった。










 ◆◆◆◆◆Scene2◆◆◆◆◆





 右腕だけは吊ったままで、大学に戻った。友人一同が色々助けてくれるので、大学生活で困ることはそれほど無い。
 季節は完全に秋。文化祭も近いので、展示作品を完成させるために、美術部員はみんな大変そうだ。
 でも私だけは、その中に加わる事が出来ない。退院報告も兼ねて部には顔を出したが、すぐに帰宅することにした。
「竹内ー、もう帰っちゃうの?」
 顔見せだけで帰ろうとする私に、楓子が声をかけてきた。学科は違うけれど、同じ大学。美術部としての活動は一緒である。
「まだ何も出来ないし……。この時期に、皆に気を使わせるのもね」
「そんな気は使わないわよ。むしろ部長の相手をしてくれる人が減る事が気になるわ」
 楓子が言いながら指差す方向を見ると、キャンバスを睨みながらジッと悩んでいる男性が一人。ぼさぼさ頭だけど、実は結構美形。中身は――ううん、謎。でも才能は爆発してる。
 一年ながら副部長を押し付けられた私が、同時に押し付けられたのがこの人の相手だった。曰く、天才と何とかは紙一重。この人の場合は、両方に片足ずつ残している感じ。
 私の身近で、天才といえばやはり鳳仙さんだけれど、この人も負けず劣らず大したものだ。鳳仙さんは絵の才能以外は(あと容姿も)普通の子だけれど、この人は完全に生まれつき画家です、という感じで本当に絵以外のことはどこかに置き忘れてきている。
 大学時代の誰かさんも、こんな感じかな。そんなことを思うと、なんだか放っておけなかった。
 もちろん、その誰かさん相手と同じで、私には手加減なんて微塵も無い。駄目ならひっぱたくし説教もする。上級生らしくない人に、上級生らしい扱いなど無用なのだ。その辺が副部長を押し付けられた理由の一つかも知れない。
 ――つまるところ、高校時代と似た空気がここには出来上がっていた。
「あははは。確かにね……。でも、どうやら集中しているみたいだし。大丈夫でしょう?」
「だと良いんだけど」
 楓子は言いながら肩を竦めた。
「まあ副部長をあんたに押し付けた先輩方も、こうなったら少しは協力するって態度だし。大丈夫、しばらくはゆっくりしてなさいな」
「ええ。もちろん、遠慮なく」
 何とか誤魔化せたことに安堵しながら、私は逃げるように――そう見えないように努力しながら帰宅した。





 自宅に戻った私は、最早日課となった不毛な行為を始める。
 組み立てっぱなしのイーゼル、そこに載せたままのキャンバス。
 左手だけの不器用な手付きで、キャンバスの上に線を走らせる。
「……はぁ」
 何度か濃淡の違う線を走らせたが、私はすぐに投げ出してベットにダイブしていた。
 これが、今の私の日常だ。入院中、初めて友人達がお見舞いに来てくれた日、眠れぬまま朝を迎えて。
 お見舞いに来てくれた浩樹さんにスケッチブックをねだり、その日のうちに描き始めた。そしてその日のうちに、この情けない日課も始まる。
 らしくない、本当に私らしくない。何故努力しない? 今までずっと、ただただ結果など見ぬままに努力し続けてきたというのに。
 負けない。私は泣き言なんて言わない。私は竹内麻巳なのだから。私は上倉浩樹の弟子なのだから。あの人から、強さを貰った。だから、もう迷ったりしない。迷えない――。
 ――そう思って、美術部ではなく屋上で、そして自室で。場所は違えど最初は描こうと努力した。けれど今は。
「人間、一度贅沢を覚えると……はぁ……」
 桜花展で銀賞を受賞した高校の終わりから、我ながら有り得ない絶好調が続いた。そこから、今の状況だ。極楽浄土から地獄の底へと叩き落されたようなもの。昇れば昇るほど、落ちた時の衝撃は大きいということか。
「日課、か。駄目な事かも知れないけれど」
 大学の課題も無い、店の手伝いも出来ない。絵も描けない。
 となると、やはり日課に従うべきだろうか。私は懐から鍵束を取り出した。その中の一つは、大事な宝物でもある。大学の入学式の日、浩樹さんからお祝いにと渡された合鍵。
 この時間だと、彼はまだ部活の顧問として働いているだろう。それでも、愛しい人の匂いが残る生活空間に居るだけで、少しは気持ちが落ち着くというものだ。
 逃げているだけだと、分かっている。それでも今は、彼に寄りかかるくらいしか出来ることが無かった。
「弱くなったな……わたし……」
 せめて相談すればいいのに、また一人で悩んでいる。高校の時と同じ。
 あの人に話せば何かが変わる、そう分かっているのに第一歩が踏み出せなかった。
 ――もしかしたら、私は既に諦めているのかも知れない。





 両親に、今日は遅くなると言って家を出た。冷やかされたけれど、さすがに毎日のように通っていれば慣れもする。
 彼にも部屋で待っているとメールを入れて――前に一度、浩樹さんが帰りに私の家に寄って行き違いになったことがあり、その後これも日課となっている――マンションに向かった。
 荷物は特に無い。いつも手ぶらだ。大抵のものは彼の部屋にも置いてある。困れば買って、置いておく。第二の我が家と化しているが、それはお互い様だった。親公認の仲というのは、色々と気兼ねしないで済むので便利だ。
 私はマンションに到着するとエレベーターで上へ昇り、合鍵を使って彼の部屋へ入った。
 我が物顔で――というほど大げさでもないが、遠慮なく上がってリビングのソファーに埋まり、電気も点けないままで一息つく。
 テレビでも見ようかと思ったけれど、それすらも億劫でやめた。そのままボーっと天井を眺めていると、いつの間にか眠りに落ちていった。

 目が覚めると、テレビが点いていた。それに――なんだか気持ち良い?
「やっと起きたか。電気も点けずに何やってたんだ?」
 もちろん今は点いている。彼が点けたのだろう。
 右手から伝わってくる感覚に、私は目を向けてみた。浩樹さんが私の右手を優しく揉み解している。くつろぎながら、意識せずこうしてくれるのが日課になっていた。それで何かが変わったかと言うと――それはまだ、よく分からないけれど。とにかく気持ちよくて、暖かくて、優しい気持ちが伝わってくるから私は大好きだった。
「……待ってたんです」
 私が寝起きだけが理由でない呆けた頭でそれだけ言うと、浩樹さんはやれやれと嘆息した。
「最近、なんだか駄目人間化が進んでないか?」
「そうなったら、しっかり責任とってもらいますから」
「俺のせいかよ」
「当たり前じゃないですか。誰かさんとお付き合いする前と後での変化ですよ?」
「む……。じゃあ俺にどうしろと」
「とりあえず晩御飯をご馳走して貰えると」
「お前、なんだかエリスに似てきたな」
「ということは、やっぱり浩樹さんの影響ということになりますね」
「分かった分かった、降参だ。――というか、既に作ってある。すぐ食べるなら、まだ暖かいが。どうする?」
「もちろん頂きます」
 私が頷くと、彼は手を離して食卓の準備に向かった。
 ――温もりが離れて、僅かに寂しさが残る。とはいえ、ここは彼の部屋で、本人も目の前に居る。今は、とにかくそれだけで十分だった。

 浩樹さんに言われた言葉は、彼は冗談で言ったのだとは思うけれど、自分でも感じていることだった。
 何にも出来ない、何もしない。そんな自分。
 ――今はまだ、本格的なリハビリを始まるまでと言い訳が出来る。でも、その時が来たら、私は本当に立ち向かえるのだろうか。










 ◆◆◆◆◆Scene3◆◆◆◆◆





 12月に入り、本格的に寒さが身に凍み始める。
 ただ、私の心を凍えさせるのは季節によるものばかりではなかった。
 ――リハビリは続けている。腕はそれなりに動くようになった。お医者様にも、驚異的な回復力だと言われた。
 でも、私は何も頑張っていない。浩樹さんが色々と世話を焼いてくれたお陰だった。
 一緒に居る時はいつも私の手を優しく包み、ゆっくりと揉み解してくれる。苦にならないように手を動かすための、簡単な作業とかゲームとかを、色々と考えてくれる。
 私は彼の気遣いが嬉しくて、それに甘えていただけだ。言われるままに、彼と一緒に遊んでいる。それだけで右腕はかなり自由に動くようになった。
 筋肉が衰え、右腕はだいぶ細くなってしまったけれど、何とか自力で日常生活を乗り切れるまでにはなった。
 ただ、握力が戻らない。指先の感覚が鈍い。右手に筆を縛り付け、左手で支えながら絵を描いてみたりもしたけれど、やはり何となく感覚が違う。イメージした通りの絵は描けなかった。
 左手で描いてみようという意欲は、とっくの昔に消えてしまっている。
 ――季節が冬に差し掛かった頃、私は美術部に休部届けを出した。副部長も辞した。リハビリに専念したい、というのがその理由。でも、本当は逃げただけかも知れない。
 悶々としたまま、私が次に逃げ込んだのは昔に慣れ親しんだ場所だった。12月に入った頃、放課後の撫子学園美術部は私の非難場所になっている。
「竹内先輩、こっちも見てもらえますか?」
 藤浪さんに呼ばれて、私は見入っていた1年生の絵から視線を外し、顔を上げた。
「ちょっと待ってね。……ええと、大体分かったかしら?」
 一年生は頬を火照らせながら元気良く頷いた。初々しさがちょっと可愛い。自分にもこんな時代があったのか、と考えるとくすぐったい気持ちにもなった。
 私はいわゆる大物OBらしく、特に直接面識の無かった一年生は、顔を見るだけで騒いだりする。ちょっと照れくさいけれど、悪い気はしない。
 ただ、現在の私を真に知ったらどう思うのだろう、と考えることがある。
 今は右手のリハビリ中で、美術から離れたくないから指導に来ていると部員達には話していた。理事長代理にも正式に話を通してある。顧問がアレだから是非とも御願いします――というのは、理事長代理ではなく2~3年の部員の懇願だったけれど。
 まあ、1年生の指導はともかく。ある程度の円熟期を迎え、悩み始める2~3年の指導については、やはり浩樹さんはさすがだった。絡まりあった思考の迷路を、あの人は事も無げに解いてしまう。簡単には真似できない。でも、やはり自分はあの姿にこそ憧れるのだと再確認出来た。
 私の夢だった、熱心な上倉先生と熱心な部員達による、熱血美術部活動。皮肉なもので、私の卒業した直後のここには、それが概ね実現している。もっとも、顧問が熱心なのは指導だけで、部の運営は相変わらず色々問題があるらしいけれど。
 でもやっぱり、今の私の居場所はここじゃない――。
「あの、竹内先輩?」
「え? ええ、なにかしら」
「質問、してたんですけど。聞いてました?」
「ごめんなさい、上の空だったみたいね。もう一度聞かせて貰えるかしら?」
「無理はしないでいいんですよ? 本来は顧問の仕事なんですから」
 私が素直に謝ると、藤浪さんは労うように言った。
 ――私は少し迷った。けれど彼女ならいいか、と結論付ける。
 まだ部長の田丸さんしか知らないはずのことを、藤浪さんの耳元に口を寄せ、周囲を憚るように小さな声で言った。
「理事長代理の計らいで……。一応、バイトということになったの」
「そうなんですか?」
「去年がアレだったせいで、一年生の部員も増えたから……」
 言いながら私は周囲を見渡す。再入部者も含めて2~3年は見知った顔が多いが、知らない顔――1年生は、部員のうち半数近くを占めている。
 桜花展で高校生が銀賞を受賞。ただでさえ大ニュースなのに、それが二人、しかも同じ高校である。少しでも絵に興味を持つ者ならば、誰でもそんな優秀な指導者が居るならと門を叩く。もちろん今年の新入生については、興味を持っていた子が概ね入ってくれた、という程度のことだけれど。来年は更に凄い事になるらしい。
 来年の受験に向けて、今年もスカウトが鳳仙さんのような逸材を探し出すはずの時期なのに、今年はそれが無いのだとか。自らアピールしに出向いてくる者を選別するので手一杯らしい。スカウトの大増員も検討中らしく、理事会としても嬉しい悲鳴だ。
「今年は大変だからって。腕が治るまで、家庭教師の真似事みたいな気持ちでいいから、と言われてね」
「はぁ。まあ顧問があれじゃ、理事長代理も不安になりますよね……」
 藤浪さんが溜息混じりに視線を向ける先では、浩樹さんが慌てず騒がずマイペースで、一人一人丁寧に指導していた。あれでやはり人気はあるらしく、引っ張りだこである。
 田丸さんが定期的に、もう少し手早く全体を見てくださいと注意するが、その効果は一人見る間にすぐ切れる。実に人の話を聞かない――というより、生徒達の絵を見ると他の諸々を忘れて熱心に指導してしまうのだろう。それはそれで感心。手を抜け、と言われて出来る人では無いし、その点は田丸さんも半ば諦めている様子だった。
 生徒達も文句を言いつつ和気藹々とした感じで、実に微笑ましい光景である。何もかもがコミュニケーションだ。
 部活時間内に必要なだけ回れていないのは問題ではあるものの、田丸さんや藤浪さんによると、本当に助言が必要な、深く悩んでいる生徒には欠かさずにアドバイスが出来ているらしい。その辺は変わらず大したもので、凄いんだか凄くないんだか評価に困るところは変わっていない。
「顧問としては色々と問題があるんですけど、指導そのものは優秀ですよね。本当、竹内先輩がずっと居てくれたらバランスが取れて丁度良いのに……」
「あはは。まあまあ、浩樹さんもあれで頑張っているみたいだし。去年に比べれば大きな進歩――というより別人なのよ?」
 藤浪さんの言葉は、私の将来設計をズバリ言い当てていた。軽い動揺を押し殺して私が何とか返した言葉に、彼女は特に何も気付かぬ風に応える。
「らしいですね。あれで田丸部長も関心してますし。今年からの私には、やっぱりいい加減にしか見えませんけど」
「でも、退部していく人も居ないんでしょう?」
「居ないこともないですよ。……去年は凄かったらしいので、それに比べれば無いようなものですけど。どこの部でも考えが合わない新入部員は辞めていきますし、その程度です」
「私も安心して自分の絵に集中出来る――といいんだけど」
 言いながら、私は自分の右手に視線を落とした。すると藤浪さんが表情を翳らせる。
「あの……すみません……」
 彼女は猫っぽいとよく言われる人だ。それには私も大いに賛成なのだが、ションボリしていると余計にそう見えた。チャームポイントの大きなリボンが、感情に合わせるように心なしか垂れ下がっている。
 つい余計な事を言ってしまった。後輩に気を使わせていては、私も指導者としてまだまだだ。浩樹さんのことは言えない。
「気にしないで。治らないわけじゃないんだから。私こそ、変な事言ってごめんなさい」
「そんな。わざわざ指導をしに来て頂けるだけでも申し訳ないのに……」
 藤波さんはそれだけ言って、押し黙ってしまった。
 これでは、無理に話しても逆効果だろう。そう判断した私は、
「すこし疲れたわね。休憩させてもらってもいいかしら?」
「は、はい。それはもちろん」
 部長と顧問に了解を得て、ほとぼりが冷めるまで美術室を出ることにした。
 ――ある意味、丁度良いかも知れない。霧さんに色々と話を聞いてもらおう。

 霧さんも女子バスケ部の指導中だったけれど、私が声をかけると部長に任せて付いてきてくれた。
 せめてと思い学食で飲み物を奢り、私たちは適当な席に着く。
「それで、話って……聞くまでもないわね。それのことでしょ?」
 霧さんは私の右腕を指差して言った。実に軽い調子で、そんな態度でその話題に触れる人はいなかったので、私は面食らってしまう。
 コーヒー牛乳のパックにストローを刺しながら、冷たくも聞こえるほどサバサバした口調で、彼女は続けた。
「もう、このまま絵を描けなくてもいいんじゃない。あなたは、教師になるんでしょう?」
「そ、そうですよね。私の夢は元々、美術教師だったんですから。このままでも、教えることくらいは出来るはずですよね……」
「納得できないって顔、してるわよ。それじゃ駄目だって、自分でも分かってるのね。でも、その逃げ道を知っているから迷ってしまう。道筋が定まれば、あとは本当に突っ走るだけの人なのに」
 あの頃。高校時代、絵が描けずに悩んでいた私は、本当に描きたい水彩画から逃げ、油絵にすがっていた。あの時と同じだった。
「私も色々と考えたんだけどね。浩樹に相談されてたし」
「相談……してたんですか? でも私は何も……」
「高校の時もそうだったんでしょう? 相談なんてしなくても、分かってくれてた。それでも、相談されるまで待っていてくれた」
 言われて、私はようやく詳細を思い出した。
 そういえばそうだった。私が相談して、それに答えを返してくれた。そう思っていたけれど、現実には無理に話せとは言わぬまま力になろうとしてくれていた。
 最後の一歩を踏み出すのは自分。その時が手遅れにならないように、さりげなく、いつも見守っていてくれる。浩樹さんは、そういう人だった。
「今回も同じ。浩樹も悩んでた。打ち明けてこないけど、無理に聞き出すべきなのかってね。昔と違って、生徒ではなく一番大切な人。自分が一番、力になってあげたい人。友人や両親に任せずに、自分の力で救ってあげたい人。だから――焦ってもいたと思う。でもね、それでも待った。待ちながら……やっぱり、何かをしてあげようと決意した」
「あ……」
 様々なリハビリを考え、少しでも楽しく出来る様にといつも付き合ってくれた彼。無言のまま、揉み解してくれた手。
「一番に相談すべき人に、全ての思いをぶつけたの? それもしないで悩むなんて、それこそ大間違いよ」
 いつも優しく笑っていた彼。何も知らぬままに、安心して笑っているのだと思っていた。そんなはずは無いのに、私はそう思い込もうとしていた。
「いい? あなたは間違っちゃいけない、悩んじゃいけないって考えているみたいだけど、違うでしょ。……見栄を張って強がるのも、時と場合がある。誰かに頼ることを経験したんだから、それをこそ忘れちゃいけない」
 そこで間を取るようにコーヒー牛乳のパックに刺したストローに口をつけ、一気に飲み干した霧さんは、乱暴にそれを握りつぶした。そして唐突に、
「きりーつっ!」
 体育の授業で指示しなれた単語を叫んだ。私は反射的に立ち上がってしまう。
「まわれ~、みぎっ!」
 今度は意識して、私は後ろを向いた。
「最近は相談してこないし、なんか吹っ切れたみたいだから、自分では結論出てるんじゃないかしら。だから、ね。あとはただ、あなたが……ただ胸に飛び込んで泣いてやればいいの。それで万事解決。いい?」
「……はい」
 優しくかけられた言葉に、私は静かに頷き。あとはもう、一度も振り向きもせず美術室へと向かった。

 美術室の扉を前に、私は僅かに躊躇した。扉に手をかけ、そのまま固まってしまう。
「麻巳っ!」
 しかし、私が逡巡している間に扉は開かれ、浩樹さんが飛びついてきた。
 勢い余って廊下の壁に背中を預け、彼を受け止めながら――私は硬直している。
「霧の奴がメールで言ってきたんだ。泣いていくから抱き締めてやれって」
「……そういうことは黙っていると、感動が何倍も大きいんですけど」
 私が呆れて呟く。
「俺は素直なんだよ」
「知ってます」
 私も、情感を込めて――強く抱き締め返した。
「ごめんな。最初の最初に、強がったお前を、ただ抱き締めてやればよかった。そう、後悔してた。……強いな、凄いな、なんて納得していた俺は馬鹿だ。竹内麻巳は強情で意地っ張りで、見栄っ張りで、誰かに弱みを見せるくらいなら……」
 感動の場面、なんだけれど。私はどうしても引っ掛かってしまった。
「あの。今、なんて言いました?」
「いや……。今、いいところなんだが」
「な・ん・て・い・い・ま・し・た?」
「……だから、強情で意地っ張りで見栄っ張りで……」
 私は問答無用でグーを叩きつけた。
「ナニヲスル」
 急に片言になって文句を言う浩樹さんは無視して――私は清々しい気分でにこやかに、彼の肩を掴んで押し戻した。
 そうしてから、誤魔化すようにわざとらしく大きく伸びをする。
「うん。なんだか元気が出てきました」
「……あのなぁ。一応、感動の場面だったんだが」
「そういうことは、時と場所を選んでください」
 僅かに頬を染めながら、私は浩樹さんの後ろを指差す。と、そこには美術室の扉を挟んで――思春期真っ只中の美術部員達が、興味津々に私たちのやりとりに注目しているのだった。










 ◆◆◆◆◆Scene4◆◆◆◆◆





 帰宅してすぐ、私は思い切ってフランスへ国際電話をかけた。
 電話代も思い切りが必要だったけれど、それ以上に精神的な意味合いが強い。――話してはいけないこと、話したことの無いことを、私は彼女に問うつもりだった。
「あなたにこんなことを聞くのは、最低だと思ってる」
 それでも私は彼女に――鳳仙さんに、どうしても最後の一押しを貰わなければならなかった。
「だけど、出来ることは何でもしてやるって決めたの。だから、正直に答えて」
「はい」
 彼女は淡々と応えた。
「鳳仙さん。率直に――家族を事故で亡くしているあなたから見て、こんなことで悩む私をどう思う?」
 あえて詳細は言わなかった。藤浪さんと繋がりの深い彼女には、既に詳細な話が通っているはずだ。私は回りくどい話をする余裕を持たなかったのだ。
 果たして鳳仙さんは――私の期待通りの答えを返してくれた。
「ちゃんちゃらおかしいですね。その程度で何を迷ってるんですか。自分が傷つくだけで済むなんて、安いにも程があります。しかも手なんて治る可能性があるなら、迷っている時間も全て注ぎ込んで、とっとと治してください」
「ありがとう。でも……どうして棒読みなの? もっと罵倒してくれてもいいのに。覚悟の上だったのよ?」
「そのくらいは分ります。だからこそ、ですよ。でも、望まれたことは言ってあげたいと思うじゃないですか。お礼が足りませんね。あと三回は言ってください」
「助かりました。感謝します。このご恩は一生忘れません」
 私が受話器越しに深々と頭を下げると、
「よろしい」
 鳳仙さんも、踏ん反り返って――いるような調子で返した。
 それが悪ふざけしている浩樹さんにそっくりで、私は声を立てて笑った。鳳仙さんも、それに釣られて明るく笑う。
「でも、こういうのはちょっと嬉しいです。だから出来る限り協力してあげたいって、本気で思ったんですよ」
「嬉しい……?」
 私が不思議に思い問い返すと、鳳仙さんは心外そうに言った。
「当たり前じゃないですか。憧れの、カッコイイ先輩に初めて頼られたんです。何でもしてあげたくもなりますよ。部活で一緒だった人たちなら、きっと誰でもそう思うはずです。部長の頑張りを、傍でずっと見ていたんですから」
 彼女の言葉で、私の脳裏に最初に浮かんだのは――親友の東楓子を中心とした、旧撫子美術部の面々だった。
「先輩は、自分の悩みなんて私に比べれば小さいから、悩んじゃいけないなんて――考えてますか?」
 私は応えられず、ただ無言をもって返事とした。
「そう考えること自体、私への侮辱です。それじゃあ……柳さんに裏切られて、絵を描けなくなったお兄ちゃんさえ、私が馬鹿にしているみたいじゃないですか。それを言えば、私だって五体満足で運が良いんです。親しい人を全部無くしたわけじゃなくて、お兄ちゃんも居たし。それに夢を目指すのに何の問題も無くて――それこそ先輩の方が重い、私の過去なんてどうでもいい、ちっぽけなものなのかも知れませんよね」
「そ、そんなことないわ!」
 自虐的な物言いに、私は慌てて彼女の言葉を否定しようとした。
 しかし、彼女は明るい声で続けた。
「もちろん、先輩がそんな事を考えていないのは分かります。でも、そういうことなんですよ。どんな事でも、本人にとっては重大なんです。一人で解決出来ないことなら、それはとんでもない壁で……誰かに頼らないといけない。それを理解している人こそが強いんだと思います。だから、強がる人って、本当は弱いんですよ。きっと」
 私は何も言えずに押し黙った。
 それを肯定と受け取ったのか、彼女は饒舌に後を続ける。
「私たちの世代は、みんな先輩に憧れています。私も同じ賞は貰いましたけど、それは変わりません。一番、尊敬する先輩です。皆が憧れる竹内麻巳は、強い人でなければなりません。だから、先輩。強がる人じゃなくて、強い人であってください。もし、私の期待を裏切るようなら、そうですね。……そんな人にお兄ちゃんは任せられません。今なら勝てそうですし、日本に戻ってお兄ちゃんを奪い返します」
「それは――いいえ、そう簡単にはいかないわよ。また返り討ちにしてあげるから」
 貰った強さで立っていた。また今も、貰った強さで立ち上がる。
 弱さが、強さ。
 それでいい。だって、人間だもの。一人では、生きることすら出来ない生き物だもの。
「期待してます。でも、私だってそう簡単には負けませんよ? 前回は譲っただけなんですから。同じ銀賞だし」
「なら、決着をつけるべきかしら?」
「もちろんです。楽しみにしてますから」
「本当。楽しみね、桜花展。また、あなたに会えるのも」
「楽しみはこれからですよ。だって――次の勝負は、どちらかが金賞を取るまで続くんですから」
「そうなの?」
「銀賞はお互い取ってるんですよ。それ以下で、一回だけ勝っても意味がありません」
 他人がこの言葉だけを聞いたら、大きな事を言っているだけだと思うかも知れない。けれど、私には彼女の優しさが十分に伝わってきた。
 彼女は、私が完全に戻ってくるまで待つと言っているのだ。そして、決着がつくまでは画家でいろとも。その縛りが、逆に私の道を迷いの無いものにしてくれた。それに、さすがに金賞を取るには腕を治さないといけない。リハビリにも時間が必要だろう。
 教師になりたいなら自分を倒してからにしろと。彼女はそう言って――私に道を示してくれている。悪役になってまで。
 ただ、手抜きはしないだろう。彼女は今年度の桜花展から全力で金賞を狙うはずだ。
 待つけれど、待たない。私に一番期待して、認めているのもまた彼女だった。初めての、唯一のライバル。お互いを求める相手。
 ――そこで、私はやっと気付いた。絵を描けず、駄目になった理由。それは、彼女と競うための武器が無くなったからだった。喪失感は、絵そのものというよりも。
 彼女と競い合う時を失ったこと。それにもちろん、浩樹さんとの『師弟関係』という共有出来る時を失ったこと。
 理解すれば簡単だった。意識して気持ちを切り替える。
 全力で取り戻そう。浩樹さんの思いだけで、ここまで回復したのだから。私の思いまで上乗せしたら、きっと治る。治してみせる。
 決意も新たに、私は宣言した。
「望むところよ。次の桜花展で、私こそが金賞を取ってみせるわ」





 年を越し、冬が過去になる頃。今年も桜花展が開催された。
 そこで話題の中心になったのは、またしても鳳仙エリス。昨年の銀賞に続き、今年も彼女は入賞を果たした。結果は去年に及ばないものの、一流の才能を誰もが確信し、大いに称えた。
「負けちゃいましたね……」
「勝負は数年がかりだろう? まだ、始まったばかりだ。リードされてるのは否定しないけどな」
 鳳仙さんは日本に居ない。フランスで絵に没頭している。
 ――私と浩樹さんは桜花展の結果を見に会場を訪れ、自らが応募した絵の前で話していた。
 たくさんの片翼の天使たちが手を取り合い、光の漏れる空へと昇っていく様を描いたその絵は、私がモチーフを決め、詳細なイメージを伝えながら浩樹さんが描いた絵だった。
 私にとっては最高の絵。人は他人の翼を借りてやっと飛べる。たくさんの人に助けを求めれば、天にも昇れる。そんな意味を込めた。
 しかし、結果は残念ながら落選だった。他人の目を通せば意味までは通じなかったということか。まだ未熟な私と、ブランクの長い浩樹さんとでは、結果はこんなものだろう。
 でも、時々足を止めて感心したように見入る人が居る。完成させたことだけでも満足で、他人の評価までは求めないつもりだったのに、私たちにとっては十分過ぎる成果だった。
 ――鳳仙さんへの電話の後、私は浩樹さんに改めてその考えを聞かされた。
 二人でやってみよう、と。思うようにいかない部分は手を貸すから、二人でたった一つの絵を完成させようと、彼は言った。
 それは凄い事だった。親友に裏切られ、遂に絵を描かぬまま教師の道を進むと決意した彼が、私のためならば描こうと言ってくれたのだ。
 実際、詳細は私が決めたものの、描いたのは完全に浩樹さんだった。私のイメージを、そのまま浩樹さんが描いた絵。それが今、目の前にある。だから、作者の名前は浩樹さんのものになっている。
 それが鳳仙さんにも大きな刺激になったらしく、何故か『また負けた』と言っていた。よく分からないけれど、日本に帰っている暇は無くなったらしい。絵に没頭しているなら、それは良いことだ。羨ましいことだ。会えないのは残念だけれど、留学もあと一月ほどで終わるのだから焦る必要は無い。今はそっとしておこう。
「さて、一通り見たし。そろそろ帰るか」
 そう言って、浩樹さんは私の右手を握った。私も、そっと握り返し――。

 諦めて教師になるより、乗り越えて選びとった方が良い。教師の夢だけを追求するより、絵も教師も極めればいい。そして、浩樹さんにも絵を描いて欲しい。それすらも諦めない。
 私が教師になり、浩樹さんと一緒に教え、学ぶのだ。それだけのことで、全てが叶う。その最低条件、右手のリハビリも順調に進んでいた。
 何一つ妥協せず、欲しい未来は一つ残らず手に入れたい。それが私の夢。
 誰かに指摘されるまでも無く完璧主義者な私が、何かを妥協しようとした時点で無理があるのだ。だから、欲望のままに進む。足りない力は、外から借りてくれば良い。
 同じように立ち止まることが、またきっとあるだろう。その時は、今度こそ誰かの翼に頼ろう。逆の立場となれば、私が誰かの翼になろう。
 それを知ることが出来た私は、きっとまた立ち上がれるはずだ。

























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テーマ:二次創作 - ジャンル:小説・文学

  1. 2008/03/17(月) 20:10:45|
  2. 中編

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