頭の中では、ずっと次の絵のモチーフの事ばかりが渦を巻いていた。
体育祭が終わって、以前から予定していた作品に取りかかってはみたものの、どうにも気分が乗ってこない。数日は無理矢理に描こうとしていたが、今はもう諦めて新しいモチーフを探している。
体育祭を挟んで、過去の自分と今の自分が別々の存在になってしまった。それくらい、変化があったということだろう。
――支倉孝平。生徒会役員を務める5年生の後輩。彼に頼まれ、なんとか期日に間に合わせて提供した体育祭のしおりの表紙は、かなり好評だった。その効果は上々で、上級生は仕方ないとしても一年生の何人かから入部希望が来ている。幽霊部員が多数を占める美術部の現状を考えれば、技術は無くともやる気のある者が一人でも増えるのは大きな一歩だ。感謝しなければなるまい。
支倉君は、忙しい中でも合間を見つけては様子を見に来て、なかなか捗らずに焦る私の相談に乗ってくれた。毎日、ほんの数分でも顔を見せるあの律儀さは美徳だとは思うものの、果たして相手が女だという自覚はあるのだろうか。私に、毎日、忙しい中会いに来るというのは――。
「ああもう。そうじゃなくて」
他に誰も居ない夜遅くの脱衣所で、服を脱ぎながら一人ごちる。
そう、本当は分かっていた。別のものが描きたくなったから、私はもう以前描きたかった題材に興味を無くしたのだ。
我ながら単純だとは思う。しかし、仕方ないではないか。私は絵の事ばかり考えて生きてきたから、異性というものに耐性が無いのだ。
「でも、ねぇ……」
告白して付き合おう、などと思い切るには至らない。彼の近くには千堂さんや、寮長や――ともかく、その他大勢に過ぎない私に目が向くとは思えない人ばかりが居る。
ならば絵のモデルになってもらうだけでも。いや、そんなこと出来る訳が無い。体育祭の事を持ち出せばOKは貰えるだろうとは思うが、
「告白みたいなものでしょう。それも」
普段どおりに言えればそうでもない。私は外見から恋愛には縁遠いタイプだと思われがちだから。けれど、こちらからそれを言うのに平静で居られる自信は無かった。
結局、私の初恋は消えて無くなる運命なのだ。それでいい。何も起こさなければ、何も無かったことになる。これ以上近づかなければ、いずれ忘れるだろう。――ああいう人だから、私と同じような考えの子も少なくないかも知れない。そう思うだけで、少しだけ救われた気になった。
そんな事を自分に言い聞かせながら、全裸になってハンドタオルだけを手に大浴場へ入る。
僅かな湯気の向こうに、確認出来る人影は一つだけ。この時間なら貸し切りかと期待していたけれど、まあ仕方が無い。この時間帯を好む人も少なからず居る。騒がれがちな副会長とか、物静かな桐葉さんとか。
桐葉さんとはよく一緒になる。彼女ならば悪く無い。沈黙を嫌って無理に喋ったりはせず、逆に話しかけても無視しない。何度か湯を共にするうちに、少しだけ仲良くなり、名前で呼び合うくらいにはなった。
けれど、先に湯船に浸かっている人はどうやら彼女ではなさそうだ。眼鏡が無いとよく見えず、細かいところは分からないが、少なくとも髪は短い。桐葉さんはロングストレートの美しい黒髪だから、眼鏡が無く距離があっても見間違えたりはしないだろう。
ちなみに、モデルになって欲しいという密かな希望はまだ口にしていなかった。卒業祝いにでも頼んでみようか、と思っている。今は、そのために少しでも仲良くなる事だ。
私は身体を洗い終えると、無視するのも何だからとショートカットの見知らぬ女生徒に声を掛けてみた。
「失礼してもいいかしら?」
彼女は無言だった。頷いてもいない。貸し切り状態だったのに、と怒っているのだろうか。
まあいい。私は自分でも自覚する負けず嫌いだ。拒否しないのなら肯定と受け取ることにして、気にせず彼女の居る湯船へ入った。
「……ふぅ」
自然に漏れる吐息。ああ、気持ちいい。入ったこの瞬間のために、シャワーであまり身体を温めないのが私のこだわり。
確かに少しくらいは身体に悪いのかも知れないけれど、まだ若いのだからそこまで気にしなくてもいいと思う。桐葉さんは、見かけによらず細かい事を心配しすぎなのだ。
「どうかしたの?」
向かいに座ったままの子が、見るともなしにこちらを見ている気がして声をかけてみた。慌てて顔を逸らしたが――どうにも不自然。心なしか緊張している様にも見える。いや、よく見えないけど何となく。
もしかして一年生だろうか。大浴場、というより赤の他人と湯を共にするのが初めてだというのも有り得なくはない。なら、話す事自体にも緊張があったのか。
世の中、色々な人が居る。無理に自分に合わせてもらわねばならない訳ではない。私が入ってきた事への反発があるなら、その感情に触れる事で創作への刺激を得られるかも、と思ったのだが――。
断言出来ないにしろ、本当の意味で迷惑なら離れた方がいいだろう。私は無言で湯船から出て、もう一度軽くシャワーを浴びてから別の湯船に浸かることにした。
それから十分に温まって、大浴場を出る。彼女はまだ湯船に入ったままだったが、もう興味は無かった。
身体を拭き、服を着て、暖簾を潜って外に出る。すると、拳を固めて炎を背負った副会長に出会った。
「あんの馬鹿兄いぃぃぃぃっっ!!」
いつも活発に行動していて、それでもどこか上品な千堂瑛里華。そんな彼女の口からは、らしくないどころか我が耳を疑う様な台詞が漏れている。
聞かなかった事にしよう。それがお互いのため、学院のため。そう思い、私は声もかけずに通り過ぎた。
「あ……葛城、朋香先輩?」
しかし去り際に声を掛けられてしまった。確かに美術部の部長を務める私と、生徒会副会長を務める彼女には多少の面識がある。とはいえフルネームを覚えられているとは意外だ。いや、さすがと言うべきか。
こうなっては無視も出来ない。私は仕方なく立ち止まり、振り向いた。
「何かしら?」
「ええと……もしかして今、お風呂に入ってました?」
「それが何か?」
「中には誰も……ええ、いえ、何でもないの。気にしないで」
慌てて誤魔化す彼女の様子は、あからさまに不自然だった。その視線は、どこか私を気遣っているように見える。少なくとも、自分の都合が悪いから、という感じには見えない。
いや、待て。ちょっと待て。彼女が兄を怒る? 何があった?
何だろう。いやそんなことより。
どうして、私が出てきたところに青い暖簾がかかっているのだろうか――。
――――ANOTHER VIEW 支倉孝平――――
脳停止からやっと回復し、存分に茹で上がった体と頭に水をかぶせてクールダウンしてから大浴場を出た。
いやはや、危ない。――では済んでない。かなり突き抜けてしまった。今度こそ洒落にならない。いや前回もなってないが。
彼女が――体育祭関連で大いに世話になった葛城先輩が大浴場に入ってきた時、俺は混乱して固まってしまった。逃げ出せばそれでよかったものを、何故にそのまま堪能してしまったのか。有り得ない。有り得ないが、男などと偉そうに言ってみたところで、所詮誰もが雄に過ぎないということだろう。
しかもそれが多少なり気になっている女性で、しかも想像を遥か上回るボリュームで、風呂で前を隠さないタイプの人で――ああいや、もう回想はやめろってば。また色んなところがクールダウンしなくちゃならなくなる。
さすがに犯罪染みていた。だが、このまま誤魔化し続ける訳にもいかない。副会長の時と同じだ。俺が悪い。例え、今度こそ間違いなく、そこが男風呂だったとしてもだ。
風呂を出て、階段を上がる。その途中まで、俺はただ土下座から入ろうと、そんなことばかり考えていた。
そう、階段を下りてきた悪鬼に捕まる直前までは。
「上倉――こほん。支倉君?」
金棒の代わりにイーゼルを抱えた鬼さんは、こちらを見下ろしながらこれ見よがしに呼び名を間違えてくれた。
「これから、お話、いいわよね?」
にっこりと、背筋の凍るような笑顔を向けられた。
「……はい」
さっきまで謝罪の方法を考えていたのに。
俺はいつの間にか、逃げ出す算段ばかりに脳をフル回転させていた。
――――ANOTHER VIEW END――――
「私も悪いとは思うのよ。モチーフの事を考えていて、暖簾が架け替えられていることに気付かなかったのだから」
「いえ全面的に悪いのは会長です」
「どさくさで誤魔化さない」
強く正しながら、手に持つイーゼルでゴツゴツと何度か頭を小突く。彼はそんな機能だけを持たされたカラクリ人形になったつもりか、コクコクと必死に頷いた。
「悪いのは一番に貴方、二番に会長、三番に私。OK?」
「その通りです、サー!」
「何よその馬鹿にした返事は」
また、今度は強めに一発。あ、吹っ飛んだ。
さすがに心配になって声を掛ける。
「ごめんなさい。大丈夫?」
「……ぜんぜん。まったく。すこしも。俺、こう見えても雄ですから」
彼は飛び跳ねるように元気良く起き上がり、その場に正座した。
生徒会ってどれだけの魔窟なんだか――。彼はいっそ無駄だと思えるくらいに鍛えられていた。そのタフさは、確かに『男』というよりは『雄』とか『押忍』とか呼ぶに相応しい。
「そう。じゃあ、仕方ないわね」
そこまで卑下するな、と何回言っても聞きやしないので、その辺は仕方なく放っておくことにした。
――今、私は彼の部屋に居る。画材一式を持って押しかけ、今度こそモデルにしてやろうと思ったのだ。
裸を見られた。凄く恥ずかしい。とてもとても腹立たしい。うん、それはもちろん本当です。
慌てて大浴場にとって返し、眼鏡をかけて中の人間をこっそり確認したあの時は、それはもう世界が突然終わったかというほどの喪失感を味わわせて頂いた。
でも同時に思ったのは、良い口実が出来たということで。慌てて部屋に帰った私は、何故か迷わず道具を揃えて階段を下りた。
その途中で、バッタリと彼に会ってしまう。決心は出来ているようで、でも実際は全然出来ていなくて、だから当然のように大混乱。
名前を少し間違えるほどに舌も上手く回らなくなって。それでも気持ちを纏めて、勇気を振り絞って、彼の部屋にお邪魔する事になった。
それなのにどうだろう。部屋に着いた途端、彼は土下座。恐怖に身体を震わせているのだ。話を聞いてみると、どうやら私は鬼のように怒っていて、彼の脳裏にはイーゼルをフルスイングする姿が鮮明な画像でイメージされていたらしい。
温厚な私でも怒って良いと思う。むしろ大浴場でのこと以上に怒りたい。想像通りの事をしてやろうかと思ったくらいだ。
「あのね、支倉君」
私は、だからこそ冷静に話し合わねばと理性を総動員した。
でも、彼には嵐の前の静けさ、爆発寸前の爆弾にしか見えていなかったらしい。少しでも気になる相手にこんな態度ばかりとられていては、頭を小突く位は期待に応えたくなった私を誰が咎められようか。
「はいっ!」
体育会系のような気持ちの良い返事。凄く、むかつく。
彼を好きだと、それを今や強く自覚していて、だからこそ頭に来る。
そうだ。支倉君は私の命令に従う気みたいだし、それならそうしてしまおう。
もう、どこまでも暴走すればいい。なるようになるだろうし、なるようにしかならないのだ、こういうことは。
「やめて」
「……はい?」
今日、初めての違う反応。それでも先程までよりは普通に見えて、少しだけホッとする。
「だから、そのわざとらしい態度を止めて」
「……いや、そう言われても」
彼の反論は聞かずに、私は部屋にあったカップを勝手に持ち出してきて、同じく部屋の冷蔵庫に有ったお茶を注ぐ。それを彼に渡した。
ぽかんとしている彼に、続けて指示する。
「そこのクッションで胡坐をかいて、楽な気分でお茶を飲むの。延々。3時間くらいかしら。それで許してあげるから。いいわね?」
「……はあ」
訳も分からず、それでも言いなりに頷く彼。――今なら、彼氏になれと言っても聞くのだろうか。いや、やめておこう。多分駄目だろうし、万が一そんな形で希望が叶っても嬉しくない。
今は、そう、これで十分だ。
「なるべく動かないで。でも瞬きとかは気にしないでいいから。疲れたら休憩も入れるし、遠慮なく言ってね」
私は道具を準備し、イーゼルを立てると、さりげなく彼のベッドに座る。そんな事でも得した気分。ささくれ立った心が落ち着いていく。
そういえば、男性の部屋に入ったのは初めての経験だ。それなのに緊張しないのは良いのか悪いのか。ムードが最悪なのは間違い無いが、まあ人ぞれぞれが私の持論。美術部の部長としてもそんな感じでやってきたし、これはこれでいいのだ。
「じゃ、頑張ってね」
「あの……?」
訳も分からず、それでも律儀にポーズを保持する彼に、私はようやく正式なモデル依頼をした。
三時間も経てば、間違いなく日付けが変わっていることだろう。男子の部屋に女子が居るのは甚だ問題なのだが――さて、彼はいつ頃それに気付き、どんな反応を見せてくれるのだろうか。
そんな小さな期待を胸に秘めながら、私はようやく楽しい気分になってスケッチを始める。何の工夫も無いモチーフなのに、何年ぶりかという調子の良さを自覚しながら。
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- 2008/03/03(月) 19:44:32|
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