頃合を見て戻ると、上倉先生はちゃんと美術室に来ていた。鳳仙さんのところで何やら話し込んでいる。
みんな集中しているようで、室内は静かだった。二人の話し声が、聞く気はなくとも聞こえてしまう。
どうやら寝起きがどうのと話しているらしい。
絵画特待生の鳳仙エリスは顧問の上倉浩樹先生の従姉妹であり、妹みたいなもので、現在は同居している。
鳳仙さんは朝が弱いらしく、よくその事で言い合いをしているので、またそれだろう。
これは口喧嘩というより、じゃれ合いというべきか。兄離れの出来ていない鳳仙さんは、何故かのろけ話にもっていくので、いつも先生がウンザリして逃げ出すのであった。
まあ珍しい事でもない。一応は状況を理解しているのか、声を抑えて話しているので注意する程でもないだろう。少しくらいの雑音で集中を乱すものなど、我が美術部には居ないのだ。
私は他の部員の邪魔にならないよう静かに準備を済ませると、自分も絵を描く作業を始めようと筆を手に取り、キャンバスの前で沈黙した。
イメージは頭に浮かぶ。描きたいものは確かにあるはずなのに、筆は遅々として進まない。
スランプだった。それももう何ヶ月も前からだ。
それでも、これまでは騙し騙し描いてきたのだが、ここへ来て完全に筆が止まっている。ここ数日はまともに筆を走らせた記憶が無い。
原因は分かっている。自分自身に感じた疑問を棚上げしてそのまま放置していたのが、いよいよ限界に近づいているのだ。
描くことに素直になれない。心がこじれてしまっている。
誰かに相談しようにも、部長という立場が引っかかって部員にというわけにもいかない。
教師に相談するとなると、やはり上倉先生にするしかないのだが、いい加減な日常を目の当たりにしている立場としては、なかなか上手く切り出せない。
仕方なくとはいえ、上からものを言っている立場としては難しいところだった。
「もう少し、せめて部活に出てきてくれればなぁ……」
なんだか情けなくなってきた。先輩に美術部の今後を託され、部長になったというのに。美術部どころか自分のことさえ満足に仕切れていない。
元はといえば先生が悪いのだ。
最初は無理矢理に教えを請う状態だったが、指導自体はそれなりに熱心ではあったのだ。それなのに、途中で半端なまま放り出されたせいで自分の腕前が不安で仕方が無い。
独力で何とか頑張ってはみたものの、そんな半端な状態で鳳仙エリスという本物の天才を目の当たりにしたのだ。どこかおかしくなりもする。
結局、今日も準備室で寝てたし。そのせいであんな、その、あんな――。
思い出したらまた顔が火照ってきた。おさまったと思ったのに。
「集中出来ないみたいだな。どうかしたのか?」
そんな最悪のタイミングで、最悪の人に肩を叩かれる。
驚いて上半身だけが反射的に飛びのいた。椅子が大きく傾く。
一拍の間をおいて、室内に椅子が倒れる大きな音が響いた。流石に驚いて部員たちが注目する。
「危ない危ない。大丈夫か?」
気が付くと、私は倒れていなかった。力強く腕を掴まれ、脇に手が添えられている。先生に支えられて助かったらしい。
しかし、なんというか、その。脇に添えられた手の位置が物凄く気になるんですけど――?
「いや悪かった。しかしそこまで驚くこともないんじゃないか」
あーもーいつまで触って――じゃなくて。そうだ、謝らないと。お礼しないと。あとセクハラは厳重注意。
様々に思考は巡るが、身体は緊張で縮こまっていた。
このままジッとしてたら変に思われる。そう焦っていると、いきなり怒声が響いた。
「お、お、おにいちゃん!? まさか部長にまで手を出すなんて! 私というものがありながらーーーーっ!!」
嫉妬に燃えた鳳仙さんが、猛然とこちらに向かって来た。怒気は踏み出される足にも伝わり、ドスドスと威圧感のある足音が響く。
「いやちょっとまてっていうか部長に『まで』ってなんだおい!」
またいつものじゃれ合い。助かったかな……と思ったのも束の間。足元など見えていない鳳仙さんが、床に置いてあったバックに足を引っ掛けた。
「きゃああっ」
溺れる者は藁をも掴む、とはよく言ったもので、彼女は諺の通りに身近なものを掴んだ。
そして、掴んだイーゼルは倒れる彼女と一緒に振り下ろされる。先生と、彼が支えている私に向かって。
今救ったばかりの生徒を抱えているのだ。そんな状態では、反射的にはそれが限界だったのだろう。先生は痛みに備えて硬く瞼を閉じる。
動けない先生とは逆に、私は反射的に利き腕をかざしていた。
硬い音がして、腕に痛みが走る。だが覚悟していた程でもなかった。
星の巡りでも悪いのか、今日はなんだかこんなことばかりだ。流石に嫌になってくる。
「お、おい。大丈夫か?」
座り込んだ私に、先生が心配して聞いてきた。
困惑した様子の鳳仙さんも、震える声で言う。
「ご、ごめんなさい。大丈夫ですか!?」
「大丈夫よ。咄嗟に手が出ちゃって。でも本当に大したこと無いから」
ウィンクしながら軽く答えた私だったが、鳳仙さんは真っ青になっている。
何とか彼女を落ち着かせようとは思うのだが、頭がまともに回らない。どうやら自分もかなり動揺しているらしい。
誰か助けてはくれないものか、などと他力本願なことを考えていると、
「竹内は保健室。嫌でも無理矢理連れて行くぞ。エリスも来い」
先生が緊迫した声で言った。珍しく頼もしい動きを見せてくれる。
先生は私を立たせ、部員たちに指示をすると、まだ青くなっている鳳仙さんを無理矢理引っ張るようにして美術室を出た。
無駄に騒ぎを大きくしないため、とりあえず当事者全員その場から離れる。彼女を一人その場に残すのは確かに良くないだろう。いい判断だ。
何かあればちゃんと頼りになる。普段はひたすらいい加減なくせに、こんな時ばっかり。
いっそ完全に駄目人間だったら諦めもつくのにと思いながら、先生に連れられた私は複雑な思いのまま保健室に向かった。
保健室に担当の先生は居なかった。体育系の部活で怪我人でも出たのかもしれない。
無人の保健室に入ると、先生は生徒二人を並んでベットに座らせる。
そして自分は救急用具を探しだすと、私の目の前に椅子を持ってきて座った。
「腕、見せてもらうぞ」
言いながら差し出された手に、素直に腕を預ける。
傷はたいしたことは無かった。ちょっと青くなっているが、強く押しでもしない限り痛みは無い。
それでも上倉先生は、いつに無く真剣な表情でシップを張って包帯を巻いてくれる。
大げさにされても困るんですけど――と内心では思いつつも、私は無言でされるがままになっていた。今はそうするほうが良い様な気がした。
「本当に、本当にごめんなさい。私、その。大変なことを……」
まだ顔を青くしている可愛い後輩に、私は呆れ顔で言った。
「いいのよ。本当に大したこと無いんだから。先生が大袈裟過ぎるだけです」
「大袈裟でいいんだよ。未来の竹内画伯の利き腕だからな」
「プロになんて……。まだ決めてもいませんよ」
「な~に。なろうと思えばお前はなるさ」
包帯を巻き終わり、軽く言いながら立ち上がると、先生は救急用具の片づけを始める。私はその背中に向けて言った。
「先生、すみませんでした」
「ん? なにがだ?」
「アレですよ、ほら。さっき準備室で」
「あー……あれか。まあなんとかな」
思い出したのか、痛そうな顔をしている。
「何の話ですか?」
「え、と……。アレはアレとしか言えないわ。ね、先生?」
そういえば鳳仙さんが居たのだった。この話はちょっと避けたい。
「まあなぁ。他に言いようも無いな」
先生も曖昧にだが相槌を打ってくれる。
鳳仙さんが訳が分からないという顔をしているが、そもそも、うら若き乙女に『アレ』以上の言い様があるわけがない。あっても知るもんですか。
お互いの名誉のためにも、とっとと次へいきましょう。
「それと、先ほどは有難うございました。おかげで助かりました」
「ああ、まあそれは、なんだ……」
先生は困ったように言葉を濁した。
――あーそーですか。やっぱり分かってますか。了解です。
私は先生の頭部に、冗談めかして軽く手刀振り下ろした。
「ぅがっ!?」
もちろん十分に手加減はしたのに、思った以上に派手に頭が落ちる。芸人ですかこの人は。
でも、うん。お陰でまあまあ満足。
先生は頭を押さえながら、不満そうに言う。
「いきなり何をする」
「それはこっちの台詞です。さっき私の胸に触りましたよね。立派なセクハラです」
効果は覿面だった。先生は途端にうろたえ、視線が四方へ泳いだ。
もしかして、気づかれて無いとでも思っていたのかしら。この朴念仁は。
「状況的にスルーだろ、あれは」
先生が憤慨気味に言うが、私は平然と受け流す。
「いえいえ、そういうわけにもいきません」
言いながら隣を指差してみせた。裁判官は私ではないのだ。
「おーにーいーちゃーんー?」
見ると、お隣の鳳仙さんがプルプルと震えている。
「勘弁してくれ……」
それを見て、先生がうなだれるように漏らした。
放っておくと洒落にならない惨劇が起こりそうな気がするので、助け舟を出してあげようか。
まあ何と言いますか。弾けそうな風船は早めに弾けさせた方が被害が少ないのではないかと思ったりしまして。
「さあ鳳仙さんも。遠慮せずどうぞ」
促すと、彼女はいたって素直に従った。
「えいっ!」
ズビシッ、と結構すごい音がする。
「うごっ!?」
かなり容赦の無い一発が入り、先生の頭は再び大げさに落ちた。
これでもう彼女は完全にこっちの味方である。
「お、お前らなぁ……」
「これって教頭先生とかに知れると、結構怖いですよね」
思案顔で言うと、鳳仙さんも大いに頷きながら言った。
「そうですよね~。お兄ちゃん、さすがに解雇とかされちゃうかも……」
「お、おいおい。冗談だろ?」
先生はかなり本気で焦っている。私はとぼけて言った。
「何がですか?」
「いやだから、あれは不可抗力でだな……」
「嫌々だった、と?」
「当たりまえ……いやいや」
私の視線が鋭くなったのを敏感に感じ、先生は慌てて言葉を濁す。
まあ大分可哀想なことになってきたので、そろそろ許してあげますか。
「告げ口なんてしませんよ。この時期に顧問が居ないだなんて洒落にもなりませんから。まあそれはそれとして……」
私は満面の笑みで言った。
「今後はちゃ~んと部活に出てきてくださいね」
もちろん哀れな美術教師には、すでに素直に頷く意外の選択肢など残されてはいなかった。
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- 2006/12/10(日) 22:02:49|
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