始業式。
新たな日々の始まり。新入生でなくとも、殆どの生徒たちにとってはそうなのだろう。
教師にとってもそう感じるべき時期ではあるのだが、俺にとってさほど大きな変化は無かった。クラス担任などではないし、部活は昨年度の段階から現在の三年生が主導で動いている。その三年が新入生の面倒は殆ど見てくれるだろうから、年越しの方が余程心機一転という気分になろうというものだ。
そんな訳で、末端の教師まで全員強制参加の始業式が終われば、後は部活開始の時間まで暇を持て余すのみ。する事といえば、いつも通り美術準備室でボーっとしているくらいしかない。
ならばせめて快適にと、窓際で珈琲と煙草を嗜みつつ空など眺めてみる。程よく白の乗った青空。今日の部活は屋上で空でも描かせるってのはどうだろうか。
――柄にも無く美術部顧問らしい事など考えていると、途端に眠気が襲ってきた。これは、もはや筋金入りの駄目人間って事か。いいだろう、受けて立ってやる。
「……ぇんせ~。か・み・く・ら、せんせいーっ!」
どうせ竹内が叩き起こしてくれるだろう、などと考えながら微睡んでいると、ふとそのご本人の声が聞こえた。
日々の教育の賜物か。俺は慌てて飛び起き、周囲を見回す。美術準備室は相変わらず雑然としていたが、生憎と自分以外の人間は何処にも見当たらなかった。
「なんだ、気のせいか」
「気のせいじゃありません」
寝直そうかと思ったら、呆れ声が聞こえてくる。窓から下を覗いて見てみると、案の定そこには竹内が立っていて、してやったり、と笑んでいた。
ウトウトしている間に時間が経過し、いつの間にやら始業式後のホームルームも終了する時間になっていたらしい。
「どうした、そこは美術室じゃないぞ」
寝ぼけを装い惚けてみると、竹内は腰に手を当て、呆れたようにそっと溜息。
「何を言っているんですか。今日はお休みするって、前もって言ってあります」
はて、と俺は首をひねる。今度は惚けるまでも無く出た、素の反応である。
竹内は当然怒ると思ったのだが、しかし予想の範疇とでも言いたげに僅かながら肩を竦めるのみだった。
「そんなことだろうと思って、心配で家まで真っ直ぐ帰れなかったんです。たまには私の心配を杞憂で終わらせてくださいよ」
「心配しなければいいだろうに」
「本当にそれで済ませていたら、部が成り立ちません。部長、というか。私、竹内麻巳としてはですね……って、聞いてます?」
「ああ、分かった分かった。つまり心配はいくらでもするから、結果もたまにはくださいよってところだろ」
「物分かりが良い振りをしないでください。分かっていて、というのは余計に酷いんですからね。まったくもう」
今日の竹内は、文句を言いつつもどこか楽しげ見えた。釣られてこちらまで、軽く笑顔になってしまう。
「それで、どうして休むんだ?」
「もちろん午前だけで帰宅となる学生需要を当て込ん……」
俺は意味の分からない答えを返され、疑問一杯の表情になる。
「じゃなくてっ、ええと、かっ、家庭の事情ですっ!」
こちらの表情から失言にでも気づいたのか、竹内は慌てて誤魔化した。
「まあ、いいけどな」
上倉浩樹は怠慢人間である。良くも悪くもテンション低し。相手の望むことはやらないが、望まないこともまた突っ込まない。
それに何より、あまり触れられたくない部分を誰しも持っているものだ。俺だって、嫌になるほど身に染みている。
「と、ともかくですね」
こほん、と竹内はわざとらしく咳をする。
「今年の撫子学園美術部を、部長を引き継いだ者として、抱負など聞いて頂こうかと思うんですが、構いませんか?」
「聞くだけなら了解なんぞ取らなくても、いくらでも聞いてやるぞ」
「あ、ありがとうございます。では、いきますね」
竹内は通学鞄を足元に置き、深呼吸してから足を肩幅に広げ、手を腰の後ろに組むと、改めてこちらを見上げる。まるで体育会系の応援団そのものだったが、熱血ぶりが文系を逸脱している少女には実によく似合っていた。
「私、竹内麻巳は、この一年間で必ずや上倉浩樹先生をまっとうな教師として更正させて見せると、ここに宣言します」
そう一息で言い切った竹内は、直後には嫌になるくらい清々しい笑顔を見せてくれた。やり遂げた感がある――様に感じるものの、実際には始まりだろう。俺にとって、少しも嬉しくない日々の。
「どうですか?」
「どう、と言われても」
「ふふ。まあ、簡単にいくとは思っていません」
竹内は鞄を拾い上げ、軽く埃を叩く。
「もう時間も無いので、行きますね」
そう言ってアッサリと背を向けた。
怖い宣言を聞いたばかりだというのに、何となく名残惜しい。
そんなこちらの気持ちを知ってか知らずか、竹内はそこでもう一度だけ振り向いた。
「絶対にずぇったいに、今年度こそはちゃんと顧問をやらせてみせますからねっ!!」
竹内は、年越し頃から部長を任されていて。その事と関係は無いものの、丁度その辺りから俺は不真面目な教師になってしまった。真面目が服着て歩いているような奴だから、もしかしたら自分のせいなのではと責任を感じさせてしまったのかも知れない。
理由はどうあれ、苦労をかけてしまったのは確かなのだが。
それでも日々は充実しているのだと、振り向いた竹内の笑顔はそう語っている気がした。
「それでは今度こそ、さようなら」
ぺこりと頭を下げる竹内に、
「ああ。また明日な」
そう返してやると、パタパタと軽い足音を響かせながら小走りで去っていく。
人間性の割にはえらく小さな背中が見えなくなるまで、俺は竹内の姿をずっと追いかけていた。
あの声が、姿が消えることが寂しくて仕方が無いのだと、自覚したのは完全に見えなくなってから。
「どこまで真っ直ぐなんだかな。まったく……眩し過ぎるんだよ、お前さんは」
一度空を見上げ、大きく紫煙を吐き出してから灰皿に押し付けて煙草を消す。まだ随分残っていたが、仕方ない。そこでようやく、今日に限って美術準備室での喫煙を咎められなかった事に思い至る。基本的にしっかり者だが、どこかでちょっぴり抜けているのがいかにも竹内らしい。
「新部長殿にお見逃し頂いた借りを返す為にも、いっちょ新学期初日くらいは頑張ってみますかね」
明日には可愛い教え子に少しくらいは褒めさせてやろうと、俺はいつに無く気合を入れて美術室へ乗り込むのだった。
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- 2010/06/12(土) 00:18:52|
- 第七話
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