十二月に入り、最近は冬の寒さも厳しくなってきた。そんな日々のなかで、今日は北風も休暇を欲しているらしい。
日差しは柔らかく空気を包み、気だるい風がそこここで微睡んでいる。そんな欠伸の一つも出そうな陽気だった。
冬には貴重なそんな一日も、もう半分が過ぎる。午後の授業も終わり、学園が第二の顔を見せる放課後。
半強制的な授業から、自ら望んで行う部活動へ。抑圧から開放へ。学校の雰囲気が僅かに熱を帯び始める。
熱中の度合いにこそ差はあれど、部に所属する者は皆、教師・生徒を問わず部活に精出す時間が始まった。
それは、もちろん伝統ある美術部も例外ではない。ただ一人を除けば。
――美術部に顔を出し、荷物を置く。先に来ていた部員たちと軽く挨拶を交わすと、美術部部長であるところの私こと竹内麻巳は、すぐさま隣接する教室へと進軍した。
攻略すべきは美術準備室。狙う首級は美術部顧問の上倉浩樹教諭である。
礼儀正しく扉の前でお伺いを立てて、しばらく待った。返事は無い。
「先生。居ないんですか? 入りますよ?」
手を掛けてみると、扉は予想通り抵抗も無く開く。
恐る恐る中に入り、室内を見回した。
確か午後の受け持ちは無かったはず。そしてこの陽気だ。もしやと思ってはいたのだが、案の定である。
ただ一人の例外――部長を務める私に取って日頃から悩みの種になっている美術教師は、机に突っ伏し、気持ち良さそうにイビキをかいていた。
「はあ。まったくこの人は」
もはや日課となった溜息一つ。
とはいえこの人の場合、まだ居ただけでもマシかもしれない。今日の陽気に感謝である。
普段ならば、とっくに帰宅した後だということも珍しくない。
この顧問のお陰で私の口からこぼれるのは、どんなに陽気の良い日であっても欠伸などでは断じてなく、疲労と不満の一杯詰まった重いため息ばかりである。
或いは罵声か小言か愚痴か皮肉か。まあそれはともかく。
あまりの情けなさに肩を落としながらも、のんきに寝ているグータラ顧問に近づくと、私は大きく息を吸った。
「上倉先生! いい加減にしてください! 顧問がサボってて私たちにどうしろと言うんですか!」
大声で叫ぶが反応なし。身じろぎ一つしない。本気で寝入っている様子である。
「せーんせー。いくら温厚な私でも限度がありますよー?」
こめかみの辺りを僅かに痙攣させながらも、顔だけは笑顔で優しく語りかけてみる。当然ながら反応は無い。
まあ警告はした。
私は先生の耳を引っ掴むと、至近距離から容赦なく大声でまくし立てた。
「いつもいつもいつもいつも! いつになったら真面目に指導してくださるんですか!
おーきーてーくーだーさーいーーーっっっ!」
酸欠で息苦しくなるくらい思い切り叫ぶ。するとようやく反応が見られた。
「あー……なんだ。部長か……」
耳に手をやりながら、ゼーハーと息を乱す生徒を尻目に、のそのそと頭を起こしながら言う。
私は不機嫌を隠そうともせずに言った。
「可愛い生徒の顔を見て、なんだとはなんですか。早く起きてください。行きますよ、先生」
両手で腕を引っ張って無理矢理起こした。すると、いまだボーっとしている先生の体が、フラリと揺らぐ。
「え、ちょっ……きゃぁ!?」
支える事も避ける事も出来ずに、私達はもつれるようにして倒れた。
反射的に閉じた瞼にギュッと力を込めたまま数秒。お尻が少し痛むが大したことは無さそうだ。
恐る恐る瞼を開く。すると、吐息がかかりそうなほど近くに先生の顔があった。
潤んだ瞳、火照った頬。やや乱れた吐息。
今のショックでやっと完全に目が覚めたらしい先生が、心配して声をかけてきた。
「すまん。大丈夫か」
その全ては単に寝起きだからだ。分かってはいたが、そう判断出来るほど平静で居られる距離でもない。
「~~~っ!!」
私は反射的に、思いっきり足を振り上げていた。
「うごっっ!??」
見事に膝が急所に入る。
くぐもった呻きを残し、先生の体が横に傾いだ。
そのまま倒れこみ、股間を押さえて震えている。
「……あ」
やってしまって後悔してももう遅い。
「え~と。先生? 大丈夫……なわけないですよねぇ」
「分かってて聞くなっ」
「あ、あはははは。でも目は覚めましたよね。しばらく休んだら部活に顔出してくださいね。
それでは私は先に行ってますので」
「た、たけうち、ちょっとまて……」
倒れた拍子に落とした眼鏡を拾うと、乾いた笑いと誤魔化しの笑みだけを残し、私は美術準備室を後にした。
普段なら、さすがに放っておいて逃げるような事はしない。
しかしこの時は、そんな余裕も無かったのである。
「部長~、先生はどうでした? ていうか顔赤いですけどどうしたんですか?」
美術室に戻ると、一番近くにいた男子部員に声をかけられた。
飛び上がりそうになりながらも、私は何とか平静を装い答える。
「先生はちょっと休んでから来るそうです」
赤面している事にはあえて触れない。
有難いことに、彼は部長の顔色をそれほど気にしているわけでも無いらしかった。納得出来ない様子で言う。
「えぇっ!? 居たのに引っ張って来なかったんですか!?」
「体調が悪いみたいだから。今日は特別です」
まさかトドメを刺しました、とも言えない。
何とか部長らしい表情を作ると、私は美術室内によく通る声で言った。
「とにかく部活動に集中しましょう。今日は上倉先生も来てくださいます。サボらせない様にどんどん質問して困らせましょう」
「は~い」
元気よく答える部員達を頼もしく感じつつ視線を転じる。手の中にはお気に入りの眼鏡があった。
さっきは慌てていて気づかなかったが、フレームが大きく歪んでいる。とても使える状態ではない。
軽く鬱な気分を抱えながらも、私はデッサンに励む部員達の間をすり抜け、壁際に置いたバックを開けた。
「とんだ災難だったわ。でも、まあ仕方ないか……」
自業自得なのだ。半分自爆みたいなものである。というか、災難という意味では先生には敵うまい。
私はコンタクトレンズを取り出すと、その時ちょうど美術室に入ってきた副部長に声を掛けた。
「田丸さん、こんにちは」
「こんにちは、竹内部長」
「先生もしばらくしたら来るだろうから、それまで頼める? こんなんだから」
壊れた眼鏡を指で摘んでぶら下げて見せた。無念を表情に滲ませながら、プラプラと小さく振る。
「うわ……。酷いですね。転びでもしたんですか?」
「うん。まあ、そんなところ……かな?」
微妙な言い回しで誤魔化す。
眼鏡はレンズを支える根元の部分から大きく曲がっていた。お店に行けば直して貰えるだろうが、このままでは集中して絵を描くなどとてもできない。
「コンタクトに変えて来るから。ついでにちょっと済ませておきたい用事もあるし」
「分かりました。頑張ります!」
副部長は、やけに気合を入れて答える。
どちらかというと可愛らしいタイプの副部長は、かなりの頑張り屋さんで責任感も強いのだ。気負いすぎる部分がまだまだある。
私はなだめるように言った。
「先生に苦労させておけばいいのよ。責任者なんだから」
「それが大変なんじゃないですかぁ」
そう返されてはフォローのしようも無い。というかそんな義理は無い。
「来年も苦労しそうだけど。頑張ってね」
疲れたように言う私に、次期部長は泣きそうになりながら言った。
「頑張りますけど。あんまり自信無いです」
「はぁ……。どうにかならないものかしらね」
「なりませんねぇ……。一向に」
そろって愚痴ると何だか連帯感は高まる。おかげで美術部の連帯感はそれはもう素晴らしいものだ。
そんなところだけはグータラ顧問の日頃の怠慢のおかげだが、感謝するいわれはない。
無駄話をしていると、熱を帯びていた顔も幾分冷めてきたようだった。
「それじゃ、頼むわね」
私はそう言い置いて、美術室を出た。
実のところ、済ませたい用事など無い。さっきの今で、平静に先生の顔を見る自信が無いだけだ。
皆が集中して絵に取り組み、静かになっている頃を見計らって戻るつもりだった。
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テーマ:二次創作 - ジャンル:小説・文学
- 2006/12/08(金) 22:51:31|
- 第一話
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